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アンドラーシュ (ガーリチ公) : ミニ英和和英辞書
アンドラーシュ (ガーリチ公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

アンドラーシュ (ガーリチ公) : ウィキペディア日本語版
アンドラーシュ (ガーリチ公)[こう]

アンドラーシュ(、1210年頃 - 1233年)はハンガリー王アンドラーシュ2世の子である。ハンガリー王子として生まれ、ルーシのガーリチ公国の公位を有した(ガーリチ公:1226年 - 1229年、1231年 - 1233年)。なお、同じくハンガリー王家出身でガーリチ公となったカールマーンの兄弟にあたる。
==生涯==
アンドラーシュは、ハンガリー王アンドラーシュ2世と王妃ゲルトルードとの間に生まれた、3番めの息子(末弟)であるとされる〔Kristó, Gyula; Makk, Ferenc (1996). Az Árpád-ház uralkodói of the House of Árpád (in Hungarian). I.P.C. Könyvek - p. 232, Appendix 4.〕。13世紀の初期に、父のアンドラーシュ2世はガーリチ地方への軍事的干渉を行っており、アンドラーシュの兄弟であるカールマーンをガーリチ公位に就けようと画策したが失敗に終わっていた。1221年、アンドラーシュ2世はガーリチ公ムスチスラフと和平条約を締結し、アンドラーシュと、ムスチスラフの娘・マリヤとの間に婚儀が結ばれた。1223年、ルーシ諸公軍とモンゴル帝国軍との間でカルカ河畔の戦いが行われ、ルーシ諸公軍が敗北した。義父ムスチスラフは、参戦したルーシの諸公国の1つであるスモレンスク公国の消耗に乗じ、ガーリチポドリエ両地方に地盤を固めたが、1228年に死亡した。
ムスチスラフの死後、アンドラーシュはガーリチ公位にあったが、同じくムスチスラフの娘婿であるダニールをガーリチ公位に迎えようとするガーリチのボヤーレ(貴族層)らと敵対、内紛の対処に追われた。1229年、ダニールによってアンドラーシュは捕虜となり、その後追放された。ガーリチ公位はダニールの手に渡った。アンドラーシュは、祖国ハンガリーや、自身の側に加担するボヤーレの軍と共にガーリチ奪還を試みたが、軍中に伝染病が発生したため、父アンドラーシュ2世は軍を引き返させた。
1231年、ガーリチ公位にあったダニールと、ベルズ公アレクサンドル(ru)との間に紛争が発生した。この渦中において、ガーリチのボヤーレはアンドラーシュをガーリチ公位に招き、アンドラーシュは軍を率いて再びガーリチへと入った。一方ダニールもまたガーリチ公位を譲渡しようとはせず、キエフ大公ウラジーミルポロヴェツ族と連合してガーリチに攻め寄せた。最終的には1233年にアンドラーシュが死亡し、ガーリチ公位はダニールの手中に収まった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンドラーシュ (ガーリチ公)」の詳細全文を読む




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